第1回 沢木耕太郎「旅する力ー深夜特急ノート」
“バックパッカーの聖書”として読み継がれる「深夜特急」(初版1986年)から25年が経った。「深夜特急」はシリーズ累計500万部を突破した永遠のベストセラーだ。この文庫を片手にアジアの土煙のなかを、ヨーロッパの片隅をひとり歩いた旅人は多いだろう。
今や当時の無銭旅行者は中年のおじさん、おばさんである。
団塊おやじとなった沢木耕太郎氏が、改めて「深夜特急」を振り返り、「旅の本質」を語ったのが本書だ。幼い頃、ひとり電車に乗って見知らぬ町へ行ったことから、沢木流の旅がはじまる。そして香港を皮切りに陸路ロンドンへ。シルクロードの壮大な旅がはじまった。26歳の青年の瑞々しい感性で描かれた旅の体験紀行、その貴重な記録は「深夜特急」に詳しい。
さて、青年は今、中高年の代表選手となり、旅の本質を考える。
旅は自分の「背丈」がどれほどのものかを教えてくれた。その「背丈」を高くしてくれたのも、困難を切り抜ける力をくれたのも旅だった、という話である。裏読みすれば、いかにして「深夜特急」が生まれたか、タイトルのつけ方、文章の書き方、構成の仕方などが具体的に述べられるので、「紀行文の書き方」の新しい形の教科書ともいえる。
「深夜特急」をプロデュースした新潮社の石井昴さんに「あの旅は作家が二十代の頃の体験で、実際に書いたのは10年後のこと。旅の本質は年月を経て結晶するんだ」と聞かされたことがあった。
その言葉はぼくが「ロシア一九九一、夏」(角川学芸出版)を書く動機ともなった。本書はソビエト時代、「8月クーデター」でゴルバチョフが監禁され、巨大なソ連邦という国が崩壊する1991年の出来事を中心とした紀行で、上梓したのはその経験から18年後のことだった。旅の経験や記憶は年月を経ても色褪せることはなく、逆に時代のフィルターを通すことにより、ふたたび輝きを取り戻し、豊かな結実をもたらすものだ、と実感したものだった。残念ながら拙著は「深夜特急」に比べると、まるで売れず、話題にもならなかったが、ぼくは自分の代表作の一つだと自負している。
――目的地に着くことよりも、そこに吹いている風を、流れている水を、降りそそいでいる光を、そして行き交う人をどう感受できたかということの方がはるかに大切なのです。(本文より)
松尾芭蕉ではないが、旅の風景の一瞬の臨場感、一瞬の季節の風を読み取ることが紀行文の心髄である。
読者諸氏も遠くの旅を今一度掘り起こし、思い出の珠玉として書き残してほしい。
著者: | 沢木耕太郎 |
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タイトル: | 「旅する力ー深夜特急ノート」(新潮文庫) |
定価: | 580円 |
発行日: | 2011年4月26日 |